亨進様 天一国食口礼拝 2009年3月29日
天一国食口礼拝 2009年3月29日 亨進様の説教 “祝福を分け与える喜び”(Daum Cafe MBUの掲載記事を翻訳、整理)

韓国語の原文はこちらから↓(???? ?? ? ????.)

http://cafe.daum.net/chdmbu/68cZ/253

食口の皆さん!先週も、元気に過ごされましたか?今日は“祝福を分け与える喜び”という主題でお話ししようと思います。

与える喜びと祝福の人生

祝福の人生を生きることを願うならば、皆さんが持っているものを喜んで分け与える方法を学ばなければなりません。自分だけの目標、自分だけのための夢と野望のために生きるならば、人生はこれ以上なく寂しいものとなるでしょう。いつも何か満たされていないという感覚を抱きながら生きることになるでしょう。

神様は私たちが祝福を分け与える姿を見られる時、喜びと幸せを感じられます。分け与える人に、より大きな祝福をくださることでしょう。毎日、生活しながら、誰かに祝福を与えることができる道を探してください。皆さんはより明るく、喜びに溢れた、創造的な人生を生きることができるでしょう。

『世界経典』の教え

各宗教の経典を調べてみれば、‘与える喜び’についての教えがたくさん出てきます。まず新約聖書ルカによる福音書6章38節を見れば、“与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。”というみ言が出てきます。

仏教の経典である本事経(Itivuttaka)18章を見ると、“私が知っているように、ある存在が才能を分かち合う時により良い結実を得ることができると理解するならば、それを分かち合わずに自分だけのために用いることを快く思わなくなるだろうし、ケチだという汚名によって心を苦しめ、立ち止まらせたりすることはなくなるだろう”という教えがあります。

イスラームの経典であるコーラン92章18節から21節には、次のような教えが出てきます。“その富を施し、自分を清める。また誰からも、慈悲の報酬を求めない。一生懸命に至高者、主の御顔を請うだけである。やがて、かれは(十分に)満足出来るであろう。”(日本ムスリム協会発行 「日亜対訳・注解 聖クルアーン(第6刷)」より)

真の父母様はみ言選集46巻36ページにおいて、次のように語られています。“与えることで幸福だというのです。すべてのものが、もらうことによって幸福なのではありません。与える者が、もらう者より福があります。なぜ福があるのでしょうか。神様の側を身代わりできるからです。”

与えるのが先である

与えること、施すこと、分かち合うことは、単純に物質的なことを意味するのではなく、相手のことを考え、祝福してあげるということです。ところで多くの人が、“自分の人生もまともに送れないでいるのに、どうやって他の人を祝福してあげることができるのですか?”と言います。

しかし、違うのです。与えるのが先なのです。祝福をしてあげるのが先なのです。もし、皆さんが人々との出会いを大切に思い、祝福の気持ちを込めてまず与えるならば、彼らは皆さんがどれほど貴い気持ちをもって生きる人なのか、知ることになるでしょう。神様も皆さんのそのような気持ちと行動をご覧になって、皆さんをさらに祝福してくださるでしょう。皆さんの本心も、皆さんの善なる気持ちと行動を喜び、皆さん自身の価値について、より強い確信を持たせてくれるでしょう。

誰もが、与えることができます

また、与えたいのだけれども、与えるものが何もないという人もいます。しかし、皆さんの明るい微笑み一つ、温かい励ましの一言が、他の人にとって大きな力になるのです。皆さんがもし、誰かを信じ、信頼してあげれば、その人は大きな勇気を得られるでしょう。

長い間、会えなかった友達に電話してみてください。一緒に過ごした良い思い出を思い浮かべながら、元気に過ごしているか、尋ねてください。そのような小さな行動一つが、皆さんとその友人にとって祝福となるのです。また、隣の家の子供を面倒見てあげることもできます。バスや地下鉄で、歳をとった方に席を譲ってさしあげてください。あまり着ない服を、精誠をもって手入れし、慈善団体に寄付してください。このような実践一つ一つが、貴い分かち合いであり、祝福を伝える行為なのです。神様はそれらのすべてを、貴く見守っていらっしゃいます。それらを実践する時、皆さんは神様の側に立っているのです。

イエス様は、足を運ばれた先々において、いつも人々を祝福されました。病を持った人を治癒し、貧しい人に食べさせてあげ、寂しさに浸った人を慰労されました。このような話をすると、ある人はこう言います。“しかし私は、奇跡を起こすことができません!” 皆さんに、イエス様のような驚くべき奇跡を起こしなさいというのではありません。常に温かい気持ちと憐れみの情をもって人々に対し、皆さんができることをすればよいのです。

例えば、誰かのために祈祷することができます。サッカーシューズを買うことができない近所の子供に、サッカーシューズを買ってあげることができます。時間を割いて、歳をとった方たちの話を聞いてあげることができます。感謝の気持ちを込め、手紙を送ることができます。このような実践一つ一つが、イエス様に似る道なのです。

真のお父様の家門における、分け与える家風

真のお父様の自著伝“平和を愛する世界人に”を読むと、“ご飯を分かち合う喜び”について逸話が出てきます。真のお父様の実家の中には、旅人やホームレスのための部屋が準備されており、お父様のお母さんである忠母様がいつもご飯を準備されていたといいます。

真のお父様のおじいさん、おばあさん、ご両親は、いつも人に施すことを喜びとされていました。お父様は分け与える家風の中で成長されたのです。お父様も、いつもご自身のものを与えられたといいます。真のお父様は、幼い頃、家の横にあった精米所で冬を越す人たちに、ご飯を持っていって一緒に食べたり、毛布一枚を一緒にかぶって冬を越したりしたといいます。春になって彼らが遠くに旅立てば、再びやってくる冬を待ちわびたというのです。

分け与えることは、小さなことから始まります。与えれば、受けるようになっているのです。真のお父様は、難しい状況にある人たちにご飯を与えられましたが、彼らと一緒に過ごしながら、困難な中でも温かい気持ちを忘れず、お互いに配慮するという形の愛情を受けたと回顧されています。

真のお父様は、今この時間も分け与える精神を失っておられません。それは、お父様の家門の伝統であり、家風なのです。お父様はこのように語られました。“世界を回りながら、貧しさと空腹で苦しむ子供たちを見るたびに、人にご飯を食べさせてあげることに少しも躊躇されなかった祖父の姿を思い出す”と。

ガソリンスタンドであった出来事

何年か前、アメリカで生活していた時のことです。ある日、妻がガソリンスタンドで注油していました。その時、ある老紳士が近づいてきて、“お若い方、本当に申し訳ないのですが、20ドルほど、貸していただけないでしょうか?”と尋ねてくるのです。妻は突然だったのでためらったのですが、ふと“善なる種を蒔きなさい”という神様の心情を感じたといいます。それでその方に、“少し待っていてください”と言い残し、近くのスーパーマーケットまで車を走らせ、ATMで20ドルを引き出した後、再びガソリンスタンドに帰ってきて、その方に差し上げました。老紳士は妻にとても感謝しながら、去ったといいます。

当時、妻はその方がどのような状況にあるのか、知りませんでした。おそらく、孫の誕生日をお祝いしに行く途中で、孫と約束したプレゼントを買うために、お金がもう少し必要だったのかも知れません。病気の奥さんのために薬を買いに出たのに、予想外にお金がかかって、家まで帰るガソリン代が足りなかったのかもしれません。

このような私の予想はすべて外れているかも知れませんが、それは重要なことではありません。妻は善の種、祝福の種を植え、神様がそれを見て喜ばれたことと思います。

与える喜びと子女教育

毎週、私と妻は、子供たちのために一日を費やします。私たちはこの日を、子供の日と呼んでいます。子供の日の最後のプログラムは、漢南洞の公館に向う登り道の入り口にあるコンビニに寄ることです。そして、“じゃあ、今日はどんな祝福を分かち合う?”と尋ねるのです。そこで家に残っている子供たちと従兄弟、そして警備員に与えるお菓子と飴を選ばせるのです。小さなものですが、与える喜びを学ばせるために、いつもこのようにして、子供の日を締めくくるのです。

子供たちが自分で直接選んだお菓子と飴を分けてあげる時、それを受け取る子たちが喜ぶ姿を目にします。この小さなプレゼントが、それを受け取る人にとってどのような意味があるのかは分かりません。しかし、それを与える子供にとっては、“祝福を分かち合う喜び”を学ぶ機会となるのです。とても短い時間とお金の投資ですが、得るものはとても大きく、貴いものなのです。

ある日、妻が長男の信八を連れて学校に行った時のことを話してくれました。授業が終わり、信八が好きな緑茶ホットク(韓国の菓子パン)を買って、一緒に食べたといいます。ところが突然、信八がホットクをもう一つ買ってくれというのです。妻は“ホットクがとても好きで、もう一つ食べたいんだな”と思い、もう一つ買ってあげました。ところが信八は、ホットクを手にすると、どこかへ駆け出しました。じっと見守っていると、道にいたおばあさんにホットクを手渡しているのです。後で聞いてみると、寒い天気におばあさんが外で過ごしているのを見て、そのようにしたということでした。おばあさんは信八の気持ちを、とても喜んで受け取ってくださいました。

私は妻からこの話を聞いて、とても感動しました。幼く、まだ分別もついていない子供だと思っていましたが、そのような美しく、成熟した心を持っており、実践に移すことを知っていたのです。ホットクは一つ1,000ウォンもしない、小さなものですが、そのように分かち合えば、それによって得られる喜びは、お金で買えることのできない、貴いものになるのです。

真のお母様がくださったスカーフ

ある日、仕事を終えて漢南洞に戻る途中で、ケーキを一つ買いました。ひどい風邪にかかった善進姉のためのものです。ケーキを受け取って喜ぶお姉さんを思い浮かべながら、漢南洞の公館前まで来たのですが、ある日本人女性がドアを開けて出てくるのです。その方は、どなたかのお使いで、漢南洞に来られたようでした。

その女性は、私たちに挨拶をし、とても喜ばれました。私たちも挨拶をしたのですが、ふと何かをその方に差し上げたくなりました。しかしケーキは善進姉にあげなければならなかったので、他に差し上げるものが何もありませんでした。その時妻が、“オンニ!外はとても寒いですよ。これをしていってください。真のお母様がくださったものです”と言いながら、大切にしていたスカーフを巻いてあげました。その日本人女性は泣き出し、真の父母様と妻に、心から感謝しますと言いました。

そのスカーフは大きなプレゼントではありませんでしたが、日本食口に対する妻の温かい気持ちと情が込められていました。私はその瞬間、神様が微笑んでいらっしゃっただろうと思います。真の父母様はそのスカーフを妻にくださった時、そのように使われるだろうということをご存知であったかもしれません。

ホームレスの話

ある日、訓師の方々のために修行服を買おうと、東大門市場に行きました。私たちがまずそこに到着し、他の方々を待っていたのですが、突然誰かが泣く声が聞こえるのです。見回してみると、ある男性が道に寝そべって泣いていました。私たちはその方がどのような事情があるのか、知ることができませんでした。その方のために何かして差し上げたかったのですが、何をどのようにすればよいのか、分かりませんでした。その時、待っていた一行が到着し、しなければならなかったこともあったため、ただ眺めているわけにもいかず、いったんその場を離れました。しかし心の中では、そのことに対する思いを消すことができませんでした。その方の事情を尋ね、何かして差し上げなければならなかったのに、躊躇して、忙しいスケジュールのために、結局何もして差し上げることができませんでした。天の前に愛を分かち合うことができなかったことを後悔しました。

後日、山での早朝精誠を終え、漢南洞公館に向かって歩いていた時のことです。まだ早朝ということもあって、薄暗い中、漢南洞の近くまで着くと、ホームレスの方がカップケーキを売る店の前で寝そべっているのが目に入りました。一行と共にホームレスの横を通り過ぎながら、私はその方が、何週間か前に東大門で見た男性だということに気がつきました。交差路で信号を待っている間、私はその方に、何かをしてあげなければならないと思いました。その日はとても寒かったので、まず警護の方に、警察へ電話してもらいました。また、5メートルほど離れたところにある門の取っ手にタオルがかかっていたのが見えたので、それを取り、その方の手をタオルで包んであげました。すると男性はばっと起き上がり、“大丈夫です、ありがとうございます”と言って立ち去りました。

このようなことが起こった後、何か特別なことがあったわけではありません。私はただ、その方のために小さいこと、一つでもして差し上げることができたということに、深く感謝するだけです。

食口の皆さん!助けを必要としている誰かに会ったなら、小さいこと一つでもしてあげてください。ある人は、“天からその人を助けなさいというサインがなければならない”、もしくは“まず祈祷してみなければならない”といいます。しかし、神様は私たちに良心をくださいました。良心は神様の願いが何かを知らせてくれます。神様はいつも、このように語られます。“祝福を与えなさい。助けなさい。今日、そしてあなたの人生のすべての日において!”

私は皆さんに、道でホームレスに会ったら100万ウォンあげなさいと言っているのではありません。皆さんができることがあれば、大きなことでも小さなことでも、実践してください。

祝福の文化

本部教会にも美しい愛を実践する方々が多くいます。その中で、ある日本人女性の話をしたいと思います。その方は毎週、94歳になられる朴チョンミン勸士に侍って、教会まで来ています。日曜日だけでなく、水曜日の祈祷会の時も、そのようにするのです。朴勸士はもう歳をとられ、歩くこと自体、大変なのです。ですから教会に来るためには、誰かの助けが必要です。それでその日本人女性は、朴勸士の家が自分の家とは違う方向にあり、30分も運転をしなければならないにもかかわらず、朴勸士を自分のおばあさんのように侍っているのです。

統一グループ維持財団のバン・ヨンソプ副理事長は、本部教会の在職会長も受け持っておられます。在職会長は先日の礼拝後、財団傘下の指導者たちと、教会を発展させるための会議をしました。そして毎週の1部礼拝の案内と駐車スタッフを、各組織の役員が回りながら担当することにしました。

また、食口の方々も、以前よりも積極的に、教会礼拝のスタッフとして参加しています。以前は主に、婦人食口が教会学校の教師、案内、掃除、食事準備などの奉仕活動を担当されましたが、いつからか、長老を始めとして青年食口、壮年食口が2部礼拝と3部礼拝のスタッフを担当しています。このような主体的な参与と献身が、教会に生命力を与えているのです。教会の中で、祝福の文化を作っているのです。

神様が計画されたこと

何年か前、UTS(統一神学大学院)で超宗教運動に深い関心を持ったクリスという方に会いました。ある寒い冬の日に、彼がふと現われたのですが、彼は冬用のコートを着ていませんでした。私はとても心配になって、“大丈夫か”と尋ねたのですが、彼は大丈夫だというのです。しかしそれでも私は心配で、真のお父様が買ってくださった冬用のジャンパーを彼にあげました。すると、クリスはとても驚き、私にこのような話をするのです。何日か前、彼は道でホームレスが寒さで震えているのを見たといいます。それでとても気の毒に思い、古いものでしたが、冬用のジャンパーをあげたというのです。しかし彼は新しいジャンパーを買うお金がなく、神様に“新しいジャンパーを一つください”と祈祷したといいます。

神様は彼の憐憫と慈悲の心を誇らしく思われたのでしょう。真の父母様が私に冬用ジャンパーを買ってくださった時、そのジャンパーの上には、既に‘クリス’という名前が刻まれていたのかもしれません。私がクリスにジャンパーをあげたのですが、神様が既にそれを計画されていたのです。私は神様の使い走りに過ぎなかったのです。

食口の皆さん!これが正に、神様が祝福をくださる方法なのです。クリスがまず、温かい心で自分のものを与えると、神様はより大きなプレゼントをくださいました。古いジャンパーの代わりに、より高く、新しいジャンパーをくださいました。皆さんが分かち合いを実践するならば、神様は皆さんに、より大きな祝福をくださることでしょう。

中国人ダンサーの話

何日か前、ある方が私にビデオを送ってくださいました。そのビデオには、とても感動的な場面が収められていました。ある家庭が自動車事故に遭ったのですが、夫は足を失い、妻と子供は腕を失いました。すべての家族が障害を持つようになったのです。彼らは深い喪失感を感じたといいます。深い自己憐憫に陥り、そこから抜け出せなかったといいます。深く絶望し、人生を放棄することも考えたといいます。

ところが、彼らはあるきっかけで、人生を新しい観点で見つめるようになりました。彼らは障害を克服し、踊りを通して希望と祝福のメッセージを伝えるようになったのです。映像を一緒に見てみましょう。

(ビデオ視聴)

彼らはこのように話します。“人生で大きな危機や絶望的な状況に遭う時、神様を非難したり、自らに対して怒ったりしないでください。神様はそのような試練と挑戦を通して、とても神秘的で創造的な方法をもって、皆さんを祝福の道へと導いていらっしゃるのかもしれません。”

彼らは北京で開かれた国際ダンシング競演大会で、堂々の一位となりました。私はバレエや舞踊を情熱的に愛する人間ではありませんが、彼らが踊りを踊っている姿を見て、感動の涙を流しました。私はこのビデオを、友人たちに送りました。

何日か後、イエズス会の神父である友人が、このビデオを見たと言って、感謝の返事を送ってきました。また、ビデオを見た後に私のことを思い出して、インターネット検索をし、言論インタビュー資料などを見たといいます。それで私を激励する内容の返事を送ってくれたのです。

私はふと、このような思いが湧きました。“神様が私を通してこのダンサーのビデオを送り、私の友人たちを感動させ、また彼らをして私を励ます手紙を送らせ、私を祝福してくださっているのだなぁ!”と。

今日の教訓

食口の皆さん!今日は何を学ぶことができるでしょうか?与えるということを学んでください。分かち合う方法を学んでください。そこから、真なる喜びを感じることができます。それが正に、祝福の人生を生きることができる最も重要な鍵です。自分だけの夢と野望だけを追求すれば、豊かな人生を生きることはできないでしょう。自分の夢を成すといっても、空虚な気持ちになるでしょう。神様がくださった祝福を分かち合う人生を生きる時、皆さんは深く、広い喜びと感動を感じることができるでしょう。毎日、誰かを神様の名によって祝福してください。

何か、偉大なことをしなければならないということではありません。とても些細なことでも、その中に真実な愛と配慮の気持ちが込められれば、誰かの人生をより祝福に満ちたものへと変化させることができるでしょう。何よりもまず、皆さんの人生が変化することでしょう。

祝福を分かち合う喜びを感じながら、いつも実践する人生を生きるならば、皆さんはより多くの勝利、より多くの悟り、より多くの平和を得ることができるでしょう。神様と真の父母様の真の愛を相続する、真なる孝子・孝女になるでしょう。皆さんがこのメッセージを受け取ってくださるならば、真の父母様に大きな拍手で栄光をお捧げしてください。ありがとうございます。